蛍火


 毎週水曜日、俺はこの場所に来て煙草を吹かす。
 思い悩む少女のために、小さな蛍火をたった一つの道しるべとして示すために。







 ただ、煙が虚空へと舞い上がっていた。
 左手が痺れている。ずっと女が枕代わりにしていたせいだろう。空いた右手には煙草。

「いつも終った後吸うよね」

 女が訝しげにそう言った。

「まあ、癖みたいなもんだ」
「そんなに私って匂いきつい?」
「いや、別に」
「くんくん」

 別に匂い消しのために吸っているわけではない。
 儀式みたいなものだ。この不倫ごっこという一つの遊び。その終わりを示すための儀式。それが一本の煙草だ。
 お互いに愛なんて持ち合わせちゃいない。ただ気紛れに体を重ね合わせる関係。
 しかし、俺には家庭というものがある。妻がいて子供もいる。その中で他の女と抱き合っていることは不倫以外の何ものでもない。一時の迷い、刺激と快楽を求めた結果が今だ。
 だが、バレさえしなければ誰もが幸せで、誰もが傷つかずに済む。そう思えば今の生活はとても充実している。

「奥さんと別れちゃいなよ」
「そうだな」

 冗談だ。女の言葉も冗談だし、俺の相槌もまた質の悪いジョーク。お互いに重さを嫌い、軽い体だけの関係を保っている。今の俺と女の関係を一番しっくりくると思える言い方で言えば、友人、というのが最も適切かもしれない。そう、友人だ。ただセックスはする。
 気付けば煙草の火は俺の指間近まで迫っていた。慌てて灰皿に押し付ける。
 そろそろいい頃合だ。そう思い、寝そべっていたベッドから這い出る。

「あら?」

 女が枕にしていたものを唐突に失ったことで、重力に従い頭をシーツの上へと落とした。

「そろそろ帰る」

 服を着ながらそう言い放つ。

「鍵、閉めてってね」

 女のこの淡白なところと、体の相性の良さだけは好きだった。

「わかった」
「おやすみ」

 返事をせずに部屋を出た。
 会社から数分という通勤するには最高のロケーションのボロアパートを出て、真っ直ぐに駅へと向かう。
 頭の中ではもう明日の仕事のスケジュールを思い浮かべていた。自分のこの淡白なところだけは好きだった。







 駅に着き、改札を抜ける。
 そして、俺がホームへと降り立つと同時に電車が到着の合図である金きり音を上げ停車した。一拍置いて、ぷしゅー、というマヌケな音と同時にドアが開き、お決まりの台詞である「駆け込み乗車はお止め下さい」を聞き流しながらゆっくりと電車に乗る。
 朝の満員、混雑っぷりが嘘かのように閑散とした車内。余裕を持って席に座ると自然と溜息が出た。日ごろの行いの後ろめたさからではない。そんなもの微塵も感じていない。そんな自分はとても冷たい人間なのだろうと思う。実際、溜息はただ単なる疲れによるものだ。
 家族生活に不満などは一切無い。ある訳が無い。妻は平凡な主婦だが、「あなたの真面目なところが好き」と言ってくれる。愛している。子供は一人、男の子だ。もうすぐ高校生になる。バンドをやっていて、今はメンバーとの音楽性の違いで悩んでいるらしい。俺とは違い、人生を楽しめる子だ。どこからどう見ても幸せな家族。 
 俺のこれまでの人生は、平凡と言う言葉を体現していたような気がする。誰かが敷いたレールに乗って、寄り道もせず真っ直ぐに歩んできた。人とは足並みを揃え、輪を乱すことを嫌う。
 つまらない男。無難な男。
 少しでも付き合いがある連中は、皆口々に俺をそう評価する。

 ――お前の十年後が見える。

 そう誰かに言われた。俺にも見えたよ、あの頃は。今は少し霞んでしか見えない。
 初めてした寄り道は、浮気。それにも飽きたところだ。来週、この不倫ごっこの終わりを求めよう。あの女はいいよと答えるはずだ。俺たちの間に情なんてものはないから。それからは、きっと、また、十年後の自分をしっかりと見つけることが出来るだろう。
 再び溜息。今度は疲れからではなく、なんとなく沈んだ気持ちになったせいだ。
 センチメンタルな気持ちで物思いに耽っていると、それを邪魔するかのように電車は停止した。俺の降りる駅だ。荷物を持ち締まりかけたドアの間をすり抜ける。駆け込み降車はお止め下さい、とは言われてないのでいいだろう。
 






 定期券を胸ポケットから抜き出す。よく見ると期限がもう少しで切れそうだった。機械化が進んだハイテクな改札口を早足で通り過ぎる。
 切れかけの、目に悪そうな点滅を繰り返す外灯の下、俺は煙草を一本取り出す。家で吸うと怒られるし、歩き煙草はマナー違反だ。だから、いつもこの場所で一服してから帰ると決めていた。
 煙草を口に咥えライターを探す。しかし、どのポケットを探ろうともいっこうに見つからない。
 女の家に忘れてきたのだろうか? それならそれでしょうがないのだが、日課をこなすことが出来ないと何だかイラつく。誰かに火を借りようと周りを見渡す。しかし、人自体あまりいない駅。その中で煙草を吸う人間をみつけるということは中々に難しく、諦めかけた時、ようやくこの前行った中華料理屋のマッチを見つけた。
 そういえば、ライターのオイルが切れたからこれを使うようにしてたんだっけ。
 そんなことを考えながら箱から一本マッチを取り出す。最後の一本だった。
 折らないように気を付けながら擦る。

「ふう」

 思い切り吸い込んだ煙を口から吐き出す。
 ストレスとか、溜め込んでるもの、嫌なこと全て煙と一緒に出て行けばいいのに。
 そんな願いは届かず、逆に体の中には有害物質が増えていくばかり。嫌になる。こんなものに頼ってばかりで、やめられない自分が。むしろ、これから数時間これを味わえないと思うと、ついつい深く吸い込んでしまう。だめだだめだ。
 一人で煙草の誘惑と葛藤していると、ふと妙なものが目に入った。
 暗くてよく見えないが、あれは、どう見ても……。

「おんなのこ?」

 そう、駅の入り口の横、一番光の少ない場所に少女らしき影が見えた。
 目を凝らしてみる。背は低くて、よくて中学生だろうか? 服装もなんというか、今風ではあるが幼さが垣間見える。
 こんな時間に何故?
 そう思ったが、親を迎えにでも来たのだろう。そう思うことにした。
 と、凝視していると少女が俺の視線に気付いたのかこちらを睨んできた。
 思わず視線を逸らしてしまう。
 って馬鹿らしい。ガキにビビルなんてどうかしてる。
 
「アチッ!」

 ぼーっとしていたせいで煙草の火は指にまできていた。全然吸っていなかったのに……。
 しょうがないので、もう一本取り出す。
 が、さっきのマッチで最後だったことを思い出す。
 煙草を口に咥え途方にくれるおっさんが寒空の下で途方にくれていた。アホらしい。
 溜息が出る。溜息を吐くと幸せが逃げるらしいが、もう逃げる幸せも無いんじゃないかって思うので気にせずにもう一つ吐く。

「はい」

 と、目の前に火がつく。
 その火の向こう側にさっき睨んできた少女が満面の笑みでいた。

「どうも」

 お言葉に甘え少女が差し出すライターで火をつける。
 外灯に照らされた煙が空へと舞い上がる。
 俺も煙になって消えたい。

「一本ちょうだい」

 とんでもないことを言うガキだ。ここは大人として注意してやろうと思う。

「君は未成年だろ」
「未成年だったらダメなの?」
「法律では禁止されている」
「私、二十歳よ」

 どうやら二十歳らしい。ならここにいたのも遊びの帰りだろうか。
 もちろん信じちゃいない。

「そうか。なら……はい」
「え?」

 ここは煙草の怖さ、身を持って知ってもらおう。そう思い一本渡す。

「二十歳なんだろ? 吸えよ」
「あ、うん」
「少しキツめだけど」
「大丈夫。二十歳だもん」

 やたらと二十歳を強調しながら恐る恐る咥える少女。

「……」
「……」

 見つめあいながら、気まずい雰囲気が漂う。

「火、つけろよ」
「わ、分かってる!」

 少し焦りながらポケットからライターを取り出し、これまた恐る恐る火を近づけていく。
 うまく煙草に火がつかない。

「吸い込みながら火をつけないと」
「ふぉんなふぉとふぃっへる!」
「何言ってるかよく分からないが、さっさとしろ」
「ふぁーい」

 咥えながらではうまく喋れないようで、何を言ってるのか理解できなかったが、なんとなく察しはついた。
 俺の脅しによるものか、少女はさきほどとは打って変わってすぐさま火を近づけていた。

「っ!? ごふぉっ! ごふごふっ! おえー、ごふっ!」
「……大丈夫?」
「だ、が、ぐ、大丈夫、ぶふ」
「大丈夫か。そらよかった」
「なわけあるか! はあはあ、見れば分かるでしょ! 人の話は最後まで聞け!」
「はいはい」

 なんで俺がガキに説教されなかんのだ。おっと、そういえばこいつは二十歳だったんだっけ?
 無論信じちゃいない。

「ふむ、早く家に帰れよ。おやすみ」

 これ以上関わられても迷惑だ。気は重いが念願のマイホームへと帰ろう。

「あ、ちょっと待って」
「なんだ?」

 少女のいる側とは反対側に振り返ろうとした時、腕を引っ張られ引き止められてしまった。
 明らかに嫌そうな顔をする俺を無視して、少女は満面の笑みで言った。

「おじさん、私を買わない?」







 今は高速を使って真っ直ぐに海を目指している。
 助手席には先ほどの少女。家族には急な仕事が入ったから少し車で出る、と言っておいた。
 結論から言えば俺は少女を買った。俺だって愚痴りたい時がある。彼女にはそれに付き合ってもらうことにした。
 肩透かしをくらったように「な〜んだ」と少女が言った時は、大人としてゲンコツ一発お見舞いしておいた。

――海に行きたい

 頭の痛みで涙目の少女は、子供特有のはっきりとした声で言った。
 家から彼女の指定した海まで高速を使えば三十分程度で辿り着く。ここから三つ目の出口で降りるのがベストだ。

「君は」
「ん?」
「君は家出中なのか?」
「まあ、そんなところ」
「親が心配してるだろう」
「たぶんね」

 親という単語が出てくると先ほどまでと違い、声に拒絶の意思が含まれているのを感じた。
 これ以上聞くなと言うことだろう。その通りにしようと思うが一つだけ言いたいことがあった。

「俺も子供を持つ身だ」
「そうなんだ」
「寧ろここまでおっさんになってるのに子供の一人や二人いなかったら危険だ」
「ははは、確かに」
「だからな、一つだけ言っておく」
「子供を心配しない親はいない、とか?」
「……当たり」

 見透かされた、というよりも、余りにも一般的な答えすぎたのか。それとも少女は今までもこういうことを繰り返してきたのか?

「それが普通のことかもしれないけど、例外なんていくつだってあるでしょ?」
「まあな」
「家の親はその例外だよ」
「……」
「おじさん、いい人そうだし、たぶんこれから一生会うことないと思うから私が溜めてるもの全部ぶちまけるね」
「いい人そうってだけで、『私を買わない?』なんて誘い方してたらいつか襲われるぞ。俺だって襲うかもしれない」
「おじさんにならいいって思ったから」
「なんだそれ?」
「女の勘よ」
「ガキが何言ってやがる」
「う、うるさい」
「で、ぶちまけろよ全部。どうせ今晩だけの友人関係だ。言いたいこと言わないと損だぞ。俺だってぶちまけたいもの、色々持ってんだ。元々俺の愚痴を聞いてもらうって契約だったろ? 逆になるがそれぐらい許す。夜はまだ長いぞ」

 そんな貧相な体を襲うことは絶対にないから安心しろ、と付け加えたら、顔面にパンチを喰らわされた。危うく事故るところだった。
 高速代を払うために開け放った窓から、ほのかに潮の香りがした。







 真夜中の海はまるで化け物のようだった。
 大きな黒い口を開けて、獲物が来るのを待っている。

「なんだか怖いね」
「そうだな」
「大きなお化けみたい」
「同じことを思ったよ」
「ははは、私たちお似合いかもね」
「ここ来たら、誰だってそう思う」

 適当な岩場に腰掛ける。少女は俺の隣に身を寄せるように座る。

「親父臭い」
「親父なんだから、親父臭いに決まってる。ライター貸してくれ」
「ん、はい」

 風が強くてうまく火が出ない。

「家の親ね、離婚するの」
「……」
「お母さんにね、愛人がいたの」

 愛人は、俺にもいるよ。

「私はその愛人との子供」

 少女が淡々と無表情で語る話を俺は黙って聞いていた。

「最近ね、学校で血液型の勉強をしたの。お母さんはA型、お父さんはO型。私ねそれでやっと気付いたの。私はこの家では居場所が無かったんだって。それから夜遊びをするようになった。あの家には帰りたくなかったから」

 波の音が響き続ける。風は未だ強いままだ。

「私ね、進学が決まったの。すごく頭のいい高校。それがきっかけなのか分からない。四月に離婚することになったの。義務教育が終るからなのかな? お父さんは真面目な人だから、そこまで自分の責任だと思ったんだろうね。あの人は、一度も私を見てくれなかった」

 少しだけ笑顔をこちらに見せた。苦しいことや、辛いことがあった時、我慢するための笑顔を。とても悲しい笑顔。

「お母さんも私のことを見てくれたことはなかった。あの人は私のことを失敗だとしか思っていないから。最近、二人はいつも喧嘩してるの。そんなこと今までなかった。二人ともお互いに不干渉だったから、静かだったけど喧嘩はなかった。でもね、どっちが私を引き取るかで喧嘩してるの。二人とも、私のこといらないんだって」

 涙混じりの少女の声。火はまだつかない。

「ねえ、私はなんのために生まれてきたの? 一生懸命勉強して、成績だってずっとクラスで一番だった! 運動だって出来るんだよ? 私が一番すごいんだって、褒めてくれたっていいじゃない! ねえ! 誰か……っ……私を見てよ! くっ、うわあああああああああああああああああああああああああ!」

 顔も何もかもぐしゃぐしゃの少女。泣き叫ぶ声は波にかき消され、隣に座っている俺にも全部は届かなかった。ただ、俺に出来ることは少女を受け止めてあげることだけだったから、それを実行した。 
 黙って少女を抱きしめる。少女の中の雨はそれでも止むことはなかった。







「おじさん煙草臭いね」
「それも親父臭さの原因の一つだ」

 小一時間、泣き叫んだ少女は先ほどまでの子供らしさを取り戻していた。

「さっきの話だけどさ」
「う、うん」
「あ、もう触れられたくないか?」
「ううん、いいよ」
「まるでドラマみたいだなとしか俺には感じれなかった。そういうことを経験したことはないんだ。俺は無難な人生を歩んできたから、波乱とは無縁だった」
「見たまんまだね」
「家のな、息子がもうすぐ高校生なんだ。さっきの話からだと、丁度君と同い年だな」
「わ、私は二十歳よ」
「はいはい。だからな、寂しかったら家に来てみろ」
「え?」
「息子は馬鹿だが、人生の楽しさを俺よりも知っている。バンドをやってるらしい。今はメンバー募集中らしいからどうだ? 何か楽器弾けるか?」
「ピアノなら」
「うーん、あいつはロックだかパンクだか言ってるからピアノは微妙だな。いや、そのピアノが逆にいいかもしれない。ピアノロックか。かっこいいかもな」
「ははは、何それー」
「妻の料理はめちゃくちゃうまいんだ。そんじょそこらの飯屋よりも格段にうまい。一度食べに来い」
「……うん」
「それに、俺だっている」
「……」
「君の話を聞いてさ、色々考えたんだ。俺は今まで甘えていたんだって。この歳になって、高校生にもなってないガキにそんなことを教えられた。正直恥ずかしいよ。でも、知ることが出来た。だから、ありがとう」

 本気で頭を下げるなんていつぶりだろうか? 初めてかもしれない。でも、今そうしたい気分だった。

「鳥っていいよね」
「え?」

 頭を上げると、少女は空を見上げていた。大きくて、真っ黒な空を。

「どこが?」
「飛べるところ」
「そうか? 羽をばたつかせるのは大変そうだけど」
「もう、おじさんは夢が無い」

 怒ってるんだ、と俺にも分かりやすいように頬を膨らませてポーズをとる。

「この歳で夢見ててもどうしようもないさ」
「大人にはなりたくないね」
「そうだな」
「だからね、私、子供のままでいるの」
「それはいいことだ」
「それでね、鳥にもなるの」
「どうやって?」
「こうやって」

 両手を広げて羽ばたかせる。
 滑稽だった。
 滑稽だったが、純真さと少女の容姿がそうさせるのか、それはとても神聖なものに見えた。 

「煙草吸ってよ」
「さっきからなんだ?」
「いいからいいから」

 訝しがりながらも、言われたとおりに煙草を吸うべくライターを擦る。さっきまでつかなかったのが嘘のように、火は一度でついた。

「吸ったぞー」
「うん。あそこから見えるかな?」
「あそこ?」

 俺の疑問に、少女の人差し指が答えた。指差した先には岩場があり、そのもう少し先には家が立ち並んでいた。

「たぶん、私はお母さんに引き取られることになる」
「そうか」
「そしたらあそこの辺に住むと思うの」
「いいとこだな」
「うん! それだけが救い……」
「そうか」
「毎晩、あそこの家からこの場所を見るから。だからおじさんもたまに来てね」
「ああ、たまには来るよ」
「ありがとう。」
「ふう……どういたしまして」
「あ、来たら煙草の火で合図してね」
「ああ、いいなそれ。楽しそうだ」
「うん!」

 弾けるような笑顔だったと思う。
 真っ暗な世界では煙が舞い上がっているのかもよく見えない。今日は月も雲に隠れている。
 だけど、小さな蛍火だけはその存在をしっかりと示していた。