my cafe/オリジナル/ほのぼの

 ここは見た目はなんの変哲も無い喫茶店。チョビ髭がトレードマークの三十路のマスターが経営している。
 元はゴシップ専門のフリーカメラマンだった彼が、喫茶店を始めた理由。それは、彼の趣味が人間観察であったからだ。カメラマンの仕事は確かに人間を観察するには持って来いの仕事であった。
 だが、何か求めていたものと違う。自分はこんなスキャンダルに興味は無い。いや、無くは無いが好みでは無い。それに人の弱みに付け込むこの職業に嫌気もさしていた。そう、もっと普通の、日常の人のちょっとした幸せを見るのが好きなのだ。
 元々フリーだったのでなんのしがらみも無かったし、偶然撮れた大物の不倫現場写真のおかげで蓄えもそれなりにあった。
 だが、壁にぶち当たる。どんな仕事がこの趣味を最高に満喫できるのか? 彼は悩んだ。街を歩きながら悩んだ。歩く。悩む。三時間ほど歩いたところで体力が尽きた。三十路も過ぎると体力が落ちてくる。彼は体力の衰えを感じ憂鬱になりながら休憩できる場所を探した。ふと、目に入った喫茶店。そこで休憩する事にした。
 扉を開け、カウンター席に座る。アメリカンを頼み、胸ポケットから煙草を出し一服。それと同時に店主が灰皿を出してくれた。
 ―――中々に雰囲気のいい店だ。
 木製のアンティークで揃えられた店内はクラシックな雰囲気に包まれ、低音量でかけられるジャズもそれに拍車をかけた。なにより店に入った時に香るコーヒーの匂いが心を落ち着かせてくれる。
 店内を軽く見回していると、お待ちどう様、とコーヒーが出てきた。一口飲む。
 ―――うまい。
 彼が、ほう、と息をつくと店主がニッコリと笑顔を向けていた。そして、彼は思い立つ。
 ―――自分も。
 と。 


『my cafe』


 マスターの朝は早い。彼は新聞がポストに入る音で目覚めるのだ。布団から出ると、まず最初に洗面所に行き、鏡を見て髭をチェック。
 ―――む、右のバランスが……。
 彼にとって髭は命の次の次に大切なもの。毎日のケアは欠かせない。髭を整えた後、トーストを焼きつつ新聞を取りに行く。新聞を読みながら居間へ戻る。テーブルに新聞を置き、牛乳とマーガリンを冷蔵庫から出し、ついでに皿も棚から出す。チンとトーストが焼けたことを告げる音が響く。こんがり焼けたトーストにマーガリンを塗り完成。それを口に運びながら新聞を再び開く。これがいつもの朝食の風景。残念ながら新聞を読みながらの食事は行儀が悪いと注意してくれる人はまだいない。彼は一人暮らしである。
 朝食を取り終えた後は、開店の準備を始める。彼の店は喫茶店という形態をとっているが、その実メニューを見る限り定食屋そのものだ。和洋中全てを網羅するその品揃えは喫茶店とは思えない。何故こんなメニューになってしまったかというと、彼はあまりコーヒー、紅茶について知識が無いままこの店をオープンしてしまったからだ。なんとか客には出せる程度のコーヒーは淹れれるようにはなったが、目玉になるはずのコーヒーがそれでは客は来ない。そこで思いついたのが、これまでのバイトスキルを駆使しての料理。彼は一般家庭のそれよりかは上の腕前であったので、なんとか現在まで店は潰れずに建っている。
 それなら、定食屋にすればいいと誰も思うだろうが、彼は喫茶店を経営したかったのだ。それには理由があり、一つは喫茶店を始めようと思いついたあの店への憧れ。もう一つは、あまり忙しい店では趣味の人間観察をじっくり出来ないという理由だ。
 憧れの店のように入った時に香るのはコーヒーの香りではなく、野菜を炒める食欲を誘う匂いであるが、概ねうまくいってるようで、彼は満足している。
 料理の仕込みの為に野菜を切る姿は喫茶店のマスターには見えない。ちなみに夏には『冷やし中華始めました』の張り紙も入り口に張られる。本当に喫茶店かと疑いたくなる。まだ、コーヒーなどの喫茶店メニューについては勉強中である。
 仕込みも終えると、大体朝の8時になる。さあ、開店の時間だ。今日はどんな人間がこの店に来るのだろうか? 彼の胸の内はワクワクとドキドキ一杯であった。ああ、彼にとってこの職業は天職かもしれない。

 喫茶店『マイン』開店。

          § § §

 「はあ」

 ついた溜め息は誰の耳にも届かず消えていく。彼女、緑川リンは今人生最大の危機に瀕していた。ポケットに入っているのは着信専用になっているプリペイド携帯とラーメン屋のマッチと982円。これで次の仕事が決まるまで生きていかなければならない。
 ―――んなもん無理じゃん。
 心の中で呟いても誰も助けてくれない。昨日から何も食べていない。いや、正確には一昨日の昼に元同僚に奢ってもらったラーメンセット&餃子以来何も食べていない。
 ―――思い出したらお腹が……。
 本屋にバイト情報誌を立ち読みしに行った帰り、知り合いに会えないかと街をさ迷い歩いていた。買いに行ったわけではないところに彼女がいい性格をしていることが伺える。知り合いを探していたのも奢ってもらうためである。実に卑しい。
 もう昼も過ぎ、おやつの時間も過ぎ日が落ち始めた時、ふと食欲を誘う匂いが彼女の鼻の中に進入してくる。本能に訴えかけるその匂いに、究極の空腹状態の彼女は無意識に匂いを辿っていく。
 ふらふらと、匂いをたどり歩く彼女。その姿はまさしくゾンビ。突然ピタっと足を止める。そこには喫茶店の看板。『今日のおすすめ』と書かれたボードには『チャーハン ¥350』という文字が。
 ―――350円ならいける!

「チャーハンください!」

 喫茶店の扉を開けると同時に大声で叫ぶ。店内にいた数人の客は呆気に取られていた。マスターも最初は驚いた顔をしていたが、カウンター席に彼女を促し、水を出してからすぐに調理に取り掛かる。
 水を受け取った彼女はいっきにそれを飲み干す。そういえばと、水分補給も今日はしていなかったことを思い出した。人間は以外に死なない事を彼女は身を持って知った。
 さて、マスターの方はと言うとものすごい手際よくチャーハンを作っていた。まずネギを切り刻む。そして、市販のチャーシューも適度な大きさに切る。その間実に10秒。フライパンに火をかけ油をしいた後、卵を2個ボールに割り混ぜる。ご飯をどんぶり一杯いつもより多めによそい卵を混ぜながらフライパンに入れる。少し固まり始めたところでご飯を入れかき混ぜる。塩コショウをかけ切ったネギとチャーシューも入れ炒める。焦げ目が少し付きはじめたところで醤油をフライパンの端に円を描きながら入れ香りをつける。最後に隠し味にすき焼きのタレを小さじ一杯入れ、かき混ぜれば完成。

「どうぞ」

 マスターの手際のよさとおいしそうな匂いに放心状態だったリンはマスターの声で現実に引き戻される。目の前にはおいしそうなチャーハン。いただきますも言わずにレンゲでそれをすくい口に運ぶ。

「う、うまいっ!」

 叫び声上げ一気に口に入れていく。

「うっ」

 慌てて食べ過ぎたようでチャーハンが喉につまる。すぐに水を飲もうとするがさっき一気飲みをしてしまったのでコップの中身は空。慌ててマスターも水を出そうとするが、時既に遅し。

「きゅうー」

 妙な声を出しながら意識を体から手放すし、バタンと後ろに椅子ごと倒れるリン。それを見て「うわあ……」と声を合わせる店内の人々。

「あの、皆さん……」

 マスターがお客さんに声をかける。普段無口なマスターが仕事以外のことで口を開いたのに驚く客達。

「あ、ああ、介抱してやって。僕ら食べたらお代はカウンターに置いておくから」

 客を代表して常連らしき中年の男性がそう言うと、マスターも頷き突然倒れた女性を担ぎ中へと入っていった。
 客のほうもその後すぐ食べ終わりそれぞれのお代をカウンターに置いて、店を出て行く。皆良い人たちだ。
 店を出たところで、先ほど発言をした中年の男性がふと気付く。

「おっと、これも裏返しておくか」

 そう言って、『OPEN』と書かれたプレートを裏返しにする。現在の時間は午後3時42分。

 喫茶店『マイン』いつもより早めの閉店。